2008年3月24日

じゃんがらの南限


 じゃんがらの北限、南限とはどこになるのだろうか。 

 2000年の夏に、私は北茨城市内のじゃんがらを追っかけたことがあった。そのときに、大津町、関本上、湯の網のじゃんがらの新盆周りにくっついて歩いた。現在、伝承されるじゃんがらでは、この湯の網が一番南である。

 しかし、今回の取材で伺った大津の方からこんな話を伺った。

「大津のじゃんがらが復活したときに、磯原の年寄りが見に来たんです。そしたら、その年寄りが、うち(磯原)にも昔じゃんがらがあって懐かしくて見に来たんだっていうの」

 大津のじゃんがらが復活したのは昭和50年頃。そうすると、磯原にじゃんがらがあったのは昭和初期以前だと想定される。この話からすると、じゃんがらの南限は、磯原まで行くのかもしれない。

 北茨城のじゃんがらの特徴といえば、やはり笛。今回、取材で伺った神岡上の80代の古老は、子供の頃から、腰に笛をぶらさげ、片時も笛を手放さなかったという根っからの笛吹き。

「じゃんがらは”さんがら”といって、太鼓と鉦と笛の三つがなきゃならない。でも、一番大事なのは笛。太鼓も鉦も、笛に合わせるんだから」

 いわきのじゃんがらでも、遠野町などのように笛が入るじゃんがらがあるが、いわきのほうは、太鼓に笛を合わせるという。北茨城のじゃんがらは、いわきのじゃんがらとは逆で、笛が基本なのだ。先の大津町のじゃんがらも、笛がきっかけで復活したという。

「とらやんっていう笛の名人がいたの。この人が、床屋で笛を吹いていた。昔は床屋に人が集まってたからね。そしたら、じゃあ俺は、太鼓を家から持ってくる、俺は鉦持ってくるって、じゃんがらがはじまっちゃたの。それが、大津のじゃんがらの復活したきっかけ」

 じゃんがらの中心に笛を置く北茨城と太鼓を重視するいわき。この明確なコントラストには、どんな意味があるだろう。それはただ単に笛という楽器が一つ増えただけにとどまらず、じゃんがらに関する概念の相違が横たわっているように思う。

じゃんがらのCDが出ます!


じゃんがらのCDが出ます!


もう少し時間がかかりますが、全国のCD屋さんに並ぶはずです。今回は、5団体ほどの音源を収録したもので、平地区を中心としたじゃんがらがメーンです。


じゃんがらの音源といえば、昭和50年代に出たビ○ターさんのものがありましたが、途中でFOするし、音は悪いし…。また、全国の太鼓シリーズだったか、企画モノに音源が収録されることもありました。


が、どちらも、太鼓をメーンとして、念仏踊りを収録しなかった。(じゃんがら音源の歴史については、別に詳しく書きます)


今回は、しっかりと、じゃんがら全体の音源を収録し、また、数団体の音を聞き比べることができます。私としては待ちに待ったCD化でした。大物ミュージシャンの魂の入ったじゃんがらノーツが凄いです。(詳しくはいえませんが)


また、恥ずかしながら私のライナノーツも載ってます。詳しいことが分かり次第、大いに宣伝させていただきます。


(写真は友人のせいじさんのもの)

じゃんがらの北限



 大熊町夫沢(おっとざわ)は、大熊町の北東部、福島第一原子力発電所のある地区です。夫沢第二区は、長者原と呼ばれています。以前は、双葉町にもじゃんがらがあったといいますが、現在は、この大熊町がじゃんがらの北限です。

 じゃんがらを踊るのは、13日と14日です。13日は、区の新盆家庭を供養して回り、14日は、塞神社の夜祭に盆踊りの後、踊ります。太鼓は2人から6人。基本的には2人ですが、次の世代に伝承させるために区の子供を太鼓に交ぜるそうです。

 鉦・踊り手十数人、踊り手は、各隣組より4人ずつ参加することになっています。じゃんがらの構成は、いわきと異なり、太鼓→踊り→太鼓となっています。太鼓を回る鉦は、いわきと異なり、前に進む左回り。いわきと同じように「ナーハーモーホー」ですが、その踊りは、いわきと異なり、どちらかというと相馬盆踊りに近いものです。おそらく、相馬盆踊りが挿入されたことによって、左回りの手踊りとなったと推測されます。

 また、鉦を下から頭上高くあげるダイナミックな動きが特徴的です。踊り手の女性たちは花笠をかぶります。これは、演芸会が流行したときに、区の女性たちが山形の花笠踊りを覚えて、それをじゃんがらに取り込んだためだそうです。

 年末に区長さんに話を伺ったのですが、実は、ビデオでしか大熊町のじゃんがらを見たことがなく、今年こそ、長者原のじゃんがらを見れればと思っています。

『かぼちゃと防空ずきん』


『かぼちゃと防空ずきん』は、いわき市内を中心に昭和初期から昭和30年ころまでを対象にした手記を集めたもの。141人の手記が収められている。戦争と暮らしの手記が中心を占め、「その時代の苛烈さ」から当然のことと「あとがき」に編者は記している。しかし、戦中だけでなく、戦後までを含めたのは、日本の社会の転換点であり、そこでの個人の「苛烈」な体験が、戦後の日本を作っていったという編者の意識からだと考える。

たとえば、編者の吉田隆治にとっての「戦争」とは、吉田が生まれ育った阿武隈高地の山村常葉町の大火事であった。昭和31年に起こったこの火事により、常葉町の大半が焼失した。当時、小学2年生であった吉田は崩れ落ちる我が家と買ってもらったばかりの自転車が火中に消えてゆくのを黙って見ているしかなかったという。

一夜明けて、吉田は、新聞記者から取材を受ける。廃墟の中であっても、我が家の場所の見当は付いていた。が、なぜか「知らない」と答えた吉田は、後日の新聞に「お家を探す子」として写真入で掲載される。焼け跡の中、自分の家を探し出す少年として、新聞は吉田を報じた。それは、吉田の短い「言葉」と現実を映し出す「写真」から産出される「事実」ではあった。
けれど、と吉田はいう。

灰の町。たくさんの家畜の焼死体。焼け死んだおばさんを取り囲む人々。ぐにゃりと曲がった十円玉。満開になった小学校の桜。一週間後、寄宿先の親類の家に現れた飼い猫のミケ。東京の勤め先から帰って来て、焼け跡で涙を流していた姉……。

「知らない」は、突如襲った「苛烈」なカタストロフィを消化しきれない少年が搾り出せた唯一のことばだったのかもしれない。しかし、新聞は、そんな少年のことばの内情からは、遠い「事実」を描いた。
ことばはいつも暴力的だし、そして、何も語らない。そんなことばへの不信感が、吉田をことばに繊細な詩人へ、ことばで現実を描く新聞記者へと駆り立てたのかもしれない。吉田は最後に鮎川信夫の文章を引いている。

人生においては、あらゆる出来事が偶発的な贈与にすぎない。そのおかえしに書くのである。正確に、心をこめて、書く。―それがための言葉の修練である。

吉田の「戦争」の帰結の1つが、本書の編集であったのかもしれないと思う。

『ハワイ移民史 いわきからハワイへの架け橋』


 フラガールで一躍全国区の”ハワイ”となったいわきですが、ハワイとの繋がりは、明治にまでさかのぼります。いわゆるハワイ移民です。

 日本政府の事業としてのハワイ移民(官約移民)は1885年より始まります。1894年より、民間会社の私約移民が始まり、1898年には、福島県でも移民の呼びかけが始まります。1900年代、ハワイにアメリカ合衆国法が試行されたことにより、次第に移民制限が厳しくなり、1924年にハワイ移民は完全に禁止されました。

 『ハワイ移民史』は、ハワイ移民の祖父を持つ安藤さんが、祖父のライフヒストリーを書簡や関係者への聞き取りから再構成したもの。
 安藤さんは、私と同じくらいの年で、ハワイ移民について一から調べて書いたものなので、平易で文章は分かりやすく親しみやすいです。

 私も共著者として、浪江町のハワイ移民である原田家について書かせていただきました。詳細はまた別の機会に書きたいと思いますが、明治後期のハワイとの関係が、いまだに続いていることに驚きました。

 敗戦直後に、ハワイからマヨネーズとマカロニを送られて、浪江の原田家では食べ方に困ったという話や、ハワイの原田家が戦後、家紋の額装を欲しがって、送ったら大変喜ばれたという話もありました。
 浪江とハワイの文化交流が、手紙や物資のやり取りでなされていることは、大変興味深いことと思います。

 私たちは、ハワイとの文化交流というと、実際にフラを見たり、ハワイへ行ったりします。しかし、ハワイ旅行が一般化するまで、ハワイとの文化交流は、手紙の文字であり、絵葉書の写真であり、そして、送られてきた異質なモノであったのだと思います。

 ハワイ旅行やスパリゾートが体験のハワイであるとするならば、原田家のハワイは、想像のハワイであったといえます。お互いモノを通して、お互いの暮らしや風土や人間を想像する。それは決して貧しいものではなく、モノを通じた豊かな交流であったと思うのです。

和田文夫『土の味』


 和田文夫は、大正5(1916)年、いわき市四倉町長友に生まれている。家業の農業に従事しながら、昭和10年、柳田民俗学の門戸をたたき、その後、磐城民俗研究会、福島県民俗学会の中心として活動している。

 和田が、野の草や木の実などのエッセイを新聞連載したものを一冊にまとめたのが本書である。くるみ、ははこぐさ、セリ、カタクリ、タラボ、ゴマなど43の山野草を収録している。実際に和田が、採取し、料理し、食し、または、村人に聞いたことが記され、ときに、民俗学的知見が披瀝される。

 和田の文章は、味覚、嗅覚、触覚を刺激する。それは、和田が民俗学という学問の世界よりも、一個の農業者に基礎を置いて紡がれた文章だからだろう。
 例えば、「ふくのぢ」から文章を抜き出してみよう。

…土のぬくもりは春なのであろう、枯れ草のなかに“ふくのぢ”(ふきのとう)が、紫がかった褐色の表皮にぬくぬくとくるまって、顔を出しはじめた。枯れ草を分けて、つまんだ指に力を入れてひねると、ポキッと土からもぎとれる。ぷくっとしたやわらかなまるい玉が、ころりと手のひらに転がって“ふくのぢ”の香りが、プーンとくる。

 和田の文章は、「ぬくぬく」「ポキッ」「ぷくっ」「ころり」「プーン」という擬音語を用いるところに特徴がある。ふくのぢを採取した後、和田は水を張ったどんぶりに「ポン」と投げる。そうすると、「ぷくぷく」とふくのぢが浮く。水から出したふくのぢを、「シャキシャキ」と刻み、小皿に取って、しょう油を垂らして、口に入れる。

ほろりと苦味が舌にさわる。ふわっと香りが口いっぱいにひろがる。苦味はトウヤク(せんぶり)のように口に残らない。さらっと消えるが、香りはしばらく口の中に残る。刻まれた一ひらひとひらをつまんで口に入れて、小皿にはやがて花となる小さな粒々が残る。それをも一粒一粒つまんで口に入れる。しばらくは、この粒々からの苦味と香りが口のなかだけでない、あたまのてっぺんまでずうっとのぼる。

 どうだろう。ふくのぢがもたらす春の香りと頭のてっぺんまで上ってゆく苦味を感じられたのではないだろうか。
 ふくのぢ味噌を作るのは、いつも祖父の仕事だったと和田は続ける。囲炉裏の横座で、孫の和田が押さえるすり鉢にふくのぢを入れて、「ごりごり」祖父がする。そこで、和田は、囲炉裏の話を持ち出す。囲炉裏の横座に座るのは家の当主だけで、ほかにはお坊さんと馬鹿者か猫である。猫は、囲炉裏で焼いている魚を狙うものだが、カンのよいもので、家人の注意がそれたところを見計らっている。和田はこんな調子で、回想を続ける。

 祖父の持病は「ぢ」で、ふくのぢは胃の薬とも「ぢ」の薬ともいわれていた。しかし、そのために祖父がふくのぢ味噌を好んだのかはわからない。

 和田の文章は、結論に達しない。和田の記憶と体験を堂々巡りする。読後に残るのは、答えではなく、和田の感じた触感であり、味であり、匂いなのである。

 「土の味」を読み終えれば、不思議なことに、土にも味がある心持ちにさせられるだろう。